聖 書
旧約聖書 イザヤ書11章1~10節 (旧約1489頁)
新約聖書(福音書) マタイによる福音書2章7~12節(新約2頁)
説 教 「平和のビジョン」 柳谷知之 牧師
◆東方の占星術の学者たち(マギ)の望み
クリスマスの喜びの中、一年の最後の日を迎えています。明日からは2024年という新しい年になるのですが、たった一日で何が変わるだろう、と思う自分と、新しい年を迎える備えをするという意味を改めて考えます。ただ時が流れているというだけでなく、人はそこに区切りをつけ、前に向かって歩もうとするものだ、ということを感じさせられます。過去を振り返ると、様々な出来事がありました。世界的、社会的にも、個人的にもまさか、と思うような出来事が数多くあったように思えます。私たちの教会でも、昨年いた会員が今はここにはいない、神と共にいる、と信じつつも、寂しい思いを持ちます。
その中で、次は良い時代になるように、と願わずにはおれません。そして、それは私個人の思いというよりも、歴史の中では誰もが大なり小なり持ち続けてきた思いではないでしょうか。
本日のマタイによる福音書に登場する東方の占星術の学者たち(マギ)も、新しい時代をもたらす「ユダヤ人の王」に期待していました。彼らは、ユダヤ人・イスラエルの民ではない異邦人でありながら、「ユダヤ人の王」となる方が世界を救う方である、と期待し、自分達の星占いによって、そのしるしの星を発見したのでした。
彼らは何から救われたいと願っていたのでしょう。どのような救い主を期待していたのでしょう。
その詳細は分かりません。ただし、私たちは当時の時代背景を考えることから、彼らの願いや期待を伺い知ることができるでしょう。
主イエスが生まれた時代は、一つの転換期であった、と言えるでしょう。
ローマ帝国は、紀元前30年にはエジプトを征服し、紀元前27年には、初代皇帝オクタビアヌス(アウグストゥスの尊称)が就任し、ローマが共和制から帝国へと変わりました。アウグストゥス時代には、ローマ帝国は、今のフランス、スペイン、北アフリカ、パレスチナを治めるようになっていました。ユダヤ地方から見れば東方のメソポタミアに迫る勢いでした。一方、ユダヤ地方では、ヘロデがハスモン朝を滅ぼし、紀元前37年から王位についていました。彼は大変権力に固執し、王位を守ろうとし、いつ自分の王位が奪われるかを心配し、伯父や妻、息子たちを含む多くの人間を殺害したのでした。
こうした状況の中で、東方の学者たちは、何よりも平和を望んでいたのではないでしょうか。そして、どこかでイザヤ書に書かれている平和の君の預言を聞いていたのではないかとも考えられます。ですから、ユダヤ人の王のそのしるしの星を見て、最初にエルサレムを訪ねたのでした。自分たちの国にまでローマ帝国の勢いが及びそうになっている、ということ。それだけでなくても、戦乱が絶えず、貧しく死んでいく人々が多かった時代だったと考えられています。当時の人々の平均寿命は40歳代と考えられています。
◆マギたちのエルサレム訪問
彼らはしるしの星に導かれたとはいえ、ヘロデ大王のいるエルサレムを訪ねました。そして、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と尋ねました(マタイ2:2)。しかし、それは、ヘロデをはじめエルサレム中を不安にさせるものでした。なぜなら、エルサレムに新しい王子は誕生していなかったからです。ヘロデは猜疑心が強く、自分の王位をなんとしてでも守ろうとした人でした。彼は平静を装いながらも、律法学者たちに調べさせ、救い主がベツレヘムに生まれるであろうことを知りました。そして、学者たちを送り出す時に、密かに彼らを呼んで、次のように言いました。
「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と。
しかし、ヘロデはその子どもを拝もうとは思っていないのです。見つけたら、自分の王位を狙う者であるとして、殺そうと考えていたのでした。
◆マギたち、イエスを拝む
エルサレムを出発した学者たちは、ベツレヘムにたどり着き、幼子がいる場所を探し当てました。そして、本日の聖書にあるように、幼子の前にひれ伏し、黄金、乳香、没薬をささげました。幼子を礼拝したのです。
そして、彼らは夢を見ました。ヘロデのところには戻るな、というお告げでした。
そして、彼らは別の道を通って故郷に帰って行ったのでした。
◆示された別の道
占星術の学者たちが別の道を通って、帰って行った、というところで、いつも想い起こす歌があります。神学生の時、横浜の蒔田教会に通っていた時でした。当時、イギリスのアイオナ共同体の讃美歌が日本語訳になり、その最初の歌が、「幼子主イエスに会い」という賛美でした。
幼子主イエスに会い、帰る道はひとつ 妬むヘロデを避けて 示された道行こう
そうさ、そうさ 示された道、そうさ そうさ 目指して進もう
と言う歌詞でした。
そのもともとの題は、Go home by another way というのです。
「別の道を通る」というのは、ただ物理的な意味だけではありません。
ヘロデの道とは異なる歩みということです。
主イエスに出会うならば、私たちは別な道を選ばざるを得ないのです。
主イエスにはすべてがあり、平和があります。
今日のイザヤ書に示されるように、狼と小羊が共に伏して、牛も熊も共に草を食べる、というイメージです。敵対しあっていたものたち、とても分かりあえない存在が、共に伏して、同じものを食べるのです。しかも、それを子どもが導くのです。
ヘロデの道は権力を守るため、自分の地位を保つためには、子どもでも殺してしまう、という道です。猜疑心にさいなまれ、身内さえも殺してしまう道です。しかし、そこには平和はありません。互いに不信感を抱き、あわよくば殺してしまおう、とする世界です。脅しと力づくの支配がある世界です。
今なお、私たちの世界は、このヘロデの世界ではないでしょうか。
しかし、救い主としてお生まれになった幼子の周りには平和があります。ヨセフと幼子は血のつながりはありませんが、家族となり、貧しい羊飼いたちが招かれ、ユダヤ人たちにとっては異教徒であった東方の学者たちが幼子を礼拝します。異邦人も貧しい者たちも、主イエスを中心とする世界の中で生きることができます。
人間の権力者を中心とするならば、そこにはいつも不平等があり、命の重さに差別があります。
しかし、神の前にはすべての者が等しい価値を持ちます。
もちろん、お互いに違う存在です。神を中心として、お互いの違いを認め合う世界が、新しい道、別な道です。
新しい年を迎えるにあたって、新しい道、別の道を祈り求めていきましょう。
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