2023年6月24日礼拝説教 「神の本質の現れ」ヘブライ人への手紙1章1-4節

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「神の本質の現れ」 柳谷知之牧師
旧約聖書 エゼキエル34章23-25節 (旧約1353頁)
新約聖書(使徒書)  ヘブライ人への手紙1章1-4節 (新約401頁)

◆ヘブライ人への手紙について
 「ヘブライ人への手紙」を一読した方はいらっしゃるでしょうか? 断片的にこの書からの聖句が「招きの詞」やある方の愛唱聖句として、あるいは式文の中で引用されることもあります。
信仰生活が長い方は、次の聖句などはお聞きになったことがあるのではないでしょうか。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ11:1)
一方 次の言葉などはどうでしょうか?
「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブライ4:15)
ここでの大祭司は、キリストを現しています。
ヘブライ人への手紙において、特色的な用語は、まず主イエス・キリストを「大祭司」と表現しているところにあります。キリストは、私たち人間と神との間をとりなす存在として強調されているのです。他には、「天使」について他の書簡や福音書よりも頻繁に登場していることに気づかされます。
また、この書簡は、もともとのギリシャ語のリズムなどから見ても、書かれた手紙というよりも、最初期のキリスト教の説教の特徴を備えている、とのこと。
さらに、旧約聖書を土台として論じており、著者が旧約聖書にかなり通じていたことが分かりますし、旧約聖書を前提として論じている点では、この説教の聞き手もまた旧約聖書に通じていたと考えられるのです。
実は、この書簡がいつどのように書かれたのか、誰の手によるのか、といった情報は、現代でもほとんど分かっていない、とのことです。ただ次のようにしか言えないようです。
「紀元60年から100年の間に、エルサレムかコロサイあるいはイタリアで、ユダヤ人かギリシア人かそれ以外の異邦人宛に罹れた書簡のようだ。文体と語彙からパウロのものだとは言えないし、かなりの雄弁家であるとするとアポロという説もあるらしいが」

それでは、なぜこのような書物を読む必要があるのか、この書物からどんな大事なことが聞けるのだろう、と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
わたしは、次のように考えています。
このヘブライ人への手紙は、キリストの出来事は旧約聖書を土台としている、ということを他の書簡より深く表現しています。また、キリストが神と等しい方であることをはっきりさせています。さらに、パウロ書簡や福音書には見られない表現によって、信仰の多様性と一致制を表現していると言えます。
そして、この説教の聞き手は、さまざまなことに疲れているのです。世に仕えることに疲れ、礼拝に疲れ、キリスト教の教育に疲れ、霊的に枯渇し、祈りの生活にも疲れています。試練の中で、彼らの手は萎え、ひざは弱くなっているのです(ヘブライ12:12)。また、礼拝出席者も減っているようです(ヘブライ10;25)。私たちの教会と重ねて読むことができるような書ではないか、と考えています。
そのような意味で、これからしばらくの間、共にこのヘブライ書を通して、神の御心を聞いて行きたいと考えています。

◆序
 ヘブライ書の序・はじまりは、キリストについて語るところから始まります。この書は、パウロの書簡などのように、挨拶はありません。また、宛名もありません。唐突に「多くの断片と様々な方法で、神はかつて語られた。預言者たちによって父祖たちに。」(原文に即して訳してみました)と語り始めます。そして、今、この終わりの時代において、神は御子によって語られた、と続きます。

「多くの断片」と「様々な方法」というは、両方ともほぼ同じ意味として考えられ、修辞的に強調しているとのことですが、旧約聖書の預言者たちの事を想い起こします。また「世界が造られた時から、目に見えない神の性質…は被造物に現れており…」(ローマ1:20)とあるように、この世界の様々な出来事や動植物や自然を通して、神はご自身を現されている、と考えてもよいでしょう。そして、いよいよこの世界は完成に向かい終わりの時を迎えているのです。

その終わりは、主イエスが「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ1:15)と語られた時から始まっているのです。この世界は絶望的に見えながら、暗闇に向かうのではなく、神の光のうちに向かおうとしているのだ、ということです。その光を信じないで絶望してしまうならば、本当の闇になってしまうのです。主イエスこそ「世の光」です。「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)と言われているとおりです。

主は、「あなたがたが私を知っているなら、父をも知ることになる」(ヨハネ14:7)と語りましたが、それと同じように、ヘブライ書は、神とキリストが同等であることを告げます。

「御子は万物の相続者であり、御子によって世界が創造された」と。すなわち、御子は神の被造物ではなく、神の創造の業に携わっていることが示されます。さらに、その御子が、「神の栄光を反映し、神の本質の現れ」なのです。

◆神の栄光
 「神の栄光」ということもよくキリスト教の世界では言われる言葉ですが、わかったようで分からない言葉ではないか、と思うことがあります。「栄光」というのは、旧約聖書の言葉では「重さ」ということと関係しています。すなわち、「栄光」とは「神の存在の重さ」です。キリストこそ、神の存在を現されているということです。また、ある人は「栄光」とは「喜び」だと述べています。キリストにおいて神の喜びがある、と言えるでしょう。そのキリストが神の本質をよく現されているのです。この場合の「現れ」は「刻まれる」という言葉に由来します。ただ表面的に現れている、というよりも、キリストの存在そのものに刻み込まれているのです。
どのように刻み込まれているか、については、この後ヘブライ書を読む中でご一緒に考えていきたいと思います。が、次のことだけを心に留めたいと思います。
冒頭で引用した「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」のように、神は、高くにいて、わたしたちを何の感情もなく見ている方ではなく、憐みをもって、人間の苦しみをご自分のものとされる方です。
「神の栄光」も、ただまばゆいばかりの光ではなく、私たちの本質を照らしつつ、私たちの苦しみや悲しみの中にこそ、その存在を現されることを意味しているように思えます。
なぜなら、悲しみや苦しみ、時には世に対する怒り、義に飢え渇く時、私たちは、この世界が絶対的ではないことを知るからです。この世界が絶対的ではありえない、あってはならない、と心に刻み込むのです。
戦争があったり、様々な不正がある。それを世の達観したような人たちは、世の常であり、今更目くじらを立てるものではない、と言うかもしれません。遠くから見たり、客観的に見るような態度があることでしょう。あるいは、自分一人が何かをしても無駄だ、という態度もあるでしょう。
しかし、キリストによって現された神の存在を信じ、その神に従う者は、そのような世の捉え方をしません。

既に神の裁きははじまり、新しい世界が始まっているのです。

新しい神の国に生きようとするものは、その神の国の価値に従うのです。
それが、希望を持って生きることです。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」とヘブライ書が告げるように、希望を確かにし、まだ見ていない事実を確認していくこと、それは時には試練がありつつも、永遠の喜びに満たされる歩みではないでしょうか。

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