2023年12月24日 アドヴェント第4主日 クリスマス礼拝 説教

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クリスマス

聖 書
 旧約聖書  ゼカリヤ書9章9、10節 (旧約1489頁)
福 音 書 ルカによる福音書2章8~20節(新約103頁)
説 教 「地には平和あれ」 柳谷知之 牧師

◆救いを必要とするわたしたち
 世界的なことにあっても、個人的なことにあっても、私たちは様々な困難を抱えます。将来の不安も覚えます。今年の夏は猛暑となり、これは今年に限ったことではない、と言われています。全国の教会から募金の依頼がある中で、千葉の教会からエアコンのために、という献金依頼も来ていました。エアコンの必要のない設計にしてきた、とのことでしたが、さすがに今年の夏は厳しかった、とのことでした。一方、地球温暖化の問題、環境破壊の問題もますます深刻化しています。異常気象と呼ばれる現象が、毎年のことになっています。ご高齢の方々も、ご自分の将来に不安を覚えている方もいらっしゃることでしょう。
このアドヴェントに、私が学生時代にお世話になった寮(渓水寮)のクリスマス会に行ってきました。その寮は、東北大基督教青年会の寮で、石原謙というキリスト教史で名高い学者が資材を投じて建てたものです。各学年3名で全12名が定員の小さな寮で、最初の頃は学生でクリスチャンの人の寮だったのですが、運営上、キリスト教に関心がある人を対象に門戸を広げ、わたしが学生だった時は、クリスチャンと言える人はそれでも半数はいたのですが、入寮希望者も減り、運営は厳しくなる一方でした。十年ぐらい前から、寮生は男性だけに限らず、女性も入ることになりました。自治寮ということにはなっていますが、学生だけでの運営は厳しいので、大学院学生が主事となったり、卒寮生や大学のクリスチャンの先生が理事となって経済的にも支えたりしています。現在は、クリスチャンはいない、とのことですが、それでも、朝拝は行っていて、聖書が読まれ、讃美歌が歌われています。そして、各自が聖書に導かれるか、あるいはそれとはまったく関係なく、自分の思うところを綴った朝拝ノートが続けられているのです。

そして、その寮も風前の灯だ、とのことでした。学生はいるのですが、昔のような活動はできない、とのことだったのです。様々な大学で学生基督者青年会(学生YMCA)があり、同じような寮が、他にもあって、交流がありました。北海道大学には「汝羊寮」というのがあって、私と同年代の方で現在北海道新聞の記者になっている方が(彼は確かクリスチャンではなかったのですが)、寮の働きを覚えて、何度かコラムを書いていました。今年の夏にあったコラムでは、朝拝ノートから戦争中の学生の思いを垣間見る、ということでした。また、そのコラムの最後には「現在では高齢化や会員減のキリスト教会が多いという。混迷の世、若者が安心を見いだす場はどこにいったのか。」と綴られていました。3年ぐらい前には、同じコーナーで彼は「苦しくとも、学生がともに生活し、聖書を通じて議論をすることに価値がある! そんな精神論を寮生に押し付けるのは酷というものだ。寮生の一人として申し訳なく思う。」と綴っていました。
教会もまた希望が消えかかっています。
◆希望のありか
 しかし、聖書は希望を語っています。
主イエスは言われています。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)また、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)と言われます。そして、黙示録では、今の天地は滅び、新しい天地の完成と共に、苦難のない世界の実現が預言されています(21:1~5)。

キリスト教が始まったばかりの時、すなわち迫害などの苦難に遭った時、これらの聖書の言葉は、教会につながる人々を慰め勇気づけたに違いありません。
そして、私自身もその言葉に信頼したいと思うのです。
一方、このアドヴェントにカトリックの晴佐久昌英神父のメッセージを読みました。1年間に100人ぐらいの方に洗礼を授けている方です。言葉にも力がありますが、福音に根ざして生きている、と言う感じがします。福音が届かないって嘆いているクリスチャンが多いけど、やることとやっていない、と述べています。一度お話を伺ったこともあるのですが、すごいなぁって思いました。話が面白いというだけでなく、誰でも受け入れる姿勢があるのです。コロナの時は控えていたところもあったようですが、毎週一度、金曜日の夜には食事会をしている、それは誰が来ても構わない、とのこと。ホームレスだった人との出会いも書かれていて、キリストが来られたから大丈夫。もうあなたは神の子です。神さまはあなたを待っています。あなたが来るのを喜んでいますよ、というメッセージにあふれているのです。ユーモアにも富んでいて、とてもまねはできない、と思う反面、ああ、そうだよなって励ましをいただくのです。
そして、私たちの希望の根拠は、まさしく主イエスと出会っている、ということに尽きるのではないでしょうか。主イエスを通して、神の子とされていることに尽きるのです。

◆出会いの奇跡
 そして、主イエスとの出会いは、私たちにとっては不思議なことで奇跡としかいいようのないものがあります。
その驚きは、羊飼いと主イエスとの出会いにも現されています。夜通し野宿をしていた羊飼いに天使たちが現れます。羊飼いは、町の人たちからは除け者にされていた人々でした。しかし、その彼らに救い主の誕生の知らせは真っ先に届くのです。
彼らの救いのしるしは、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」でした。
主イエスは、家畜小屋に生まれてそこに寝かせられていたのです。
しかし、それは、羊飼いたちにとって、自分たちの仲間だ、と思える出来事でした。神の子が私たちの仲間、兄弟となってくださった、ということです。自分も含めて人の評価や価値基準ではなく、神はそのように最も虐げられている人々を、わたしの兄弟と呼んでくださるのです(マタイ25:40)。
また主イエスは、わたしたちを僕とは呼ばず、友と呼んでくださいます(ヨハネ15:15)。
その主イエスのような存在と出会えたことは、私たちの人生にとって大きな奇跡です。
自分で選んだのではない、偶然とかたまたまであるかのように見えて、神のご計画を感じさせられます。

◆地に平和を
 天使たちは羊飼いに
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」と言いました。
まず、神の栄光が語られます。神が喜ばれること、神が第一とされること、神が生き生きとご自分を現されることが第一です。
人間の苦境は、神が第一とされないことにある、と言ってもよいでしょう。神が神とされないところで、自分が神になったり、誰か他の人が神となってしまう、または経済や権力が神になってしまうこともあります。健康や長寿、血縁関係が神となることもあります。この場合の神は、自分たちにとって絶対的なものということです。しかし、そうして本来的でないことが絶対的になるときに、人間は人間らしさをうしないます。恐れに支配され、希望を失います。
このクリスマスは、私たちを根底で支え支配されているのは、神であることを見出す時です。
その神が神であってはじめて私たちが神の子とされている喜びが満ちて来ます。神が神である時にこそ、この地に平和が訪れるでしょう。わたしたちの心も平安になります。あらゆる抑圧から解放され、他の人と共にいきる勇気が与えられるからです。

 

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